兵藤長雄先生の講演『善意の架け橋』

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(左から、山崎恵子浜松在住ピアニスト、兵藤先生赴任中ショパンアカデミー学院に留学/兵藤先生/影山)

浜松市アクトシテイの研修交流センターで元ポーランド大使兵藤長雄先生をお招きして、「ポーランド魂とやまと心」と題する講演会が開催されました。4/29/2001(浜松ワルシャワ友好協会主催)

兵藤先生は1993年から4年間ポーランド大使をされました。先生が赴任当初、ポーランド在住の日本人の間では、『外務省から凄いエリートがポーランドヘ来た!』と、大変な話題になったと聞きました。(ポーランドは東欧の片田舎の話題にならない国だったからです。)兵藤先生のポーランドでの素晴らしい功績の一つ『シベリア孤児の日本とポーランドの善意の架け橋』は、歴史の中に眠っていた実話を、兵藤先生が目覚めさせたものです。

この感動の実話をまだ知らない日本の多くの方に紹介したいと思います。

講演終了後、先生とお話する機会があり、各国で大使をされた先生に、ポーランドの魅力ついてお尋ねしましたら、先生は、「ポーランドは、仕事のやりがいのある国でした。」と話されました。ポーランドに傾倒する私は、とても嬉しかった。

(浜松ワルシャワ友好協会橋事務局長記録、兵藤教授記念講演内容をより)

前文略、、、

第1次世界大戦が終わり1919年ポーランドが独立国となった直後のことです。

シベリアは、長い間祖国独立を夢見て反乱を企てて朽ちたポーランド愛国者の流刑の地でした。当時ソヴィエト政権下のシベリア極東地域には、政治犯の家族や独立した祖国ポーランドにかえりたくても帰れず、混乱を逃れて東へ逃避した難民を含めて10数万人のポーランド人がいたとも言われています。

人々の生活は飢餓と疫病の中で凄惨を極めていました。わけても親を失った子供達は極めて悲惨な状態に置かれていました。せめて子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの悲願から、1919年9月ウラジオストック在住のポーランド人によって「ポーランド救済委員会」が組織されました。救済委員会の人達が、我々はこのままシベリアで死んでもいいが子供達は何とか祖国へ返してあげたいと輸送の援助をヨーロッパやアメリカに要請しました。しかし、ことごとく失敗してしまいました。そこで、最後の手段として民族は違うが、ウラジオストックと近い日本に頼んでみようと言うことになりました。救済委員会会長は1920年日本に到着、早速外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴え日本政府に援助を懇請しました。当時政府は、この話をよく聞いて人道上の理由からこのポーランドの要請を受け入れようと決断しました。1920年といいますと、ベルサイユ条約でポーランドが出来たばかりで、日本も新しいポーランドを承認し外交関係を開くことにしていた時代でした。しかし、まだお互いに大使館もない状態でした。しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からのものではなく、ポーランドの一民間組織からの要請でした。要請後、わずか17日後にこの要請を受け入れることに決断したことは、今から考えても驚くべきことです。

この救済活動には、日本赤十字社が全面的に当たることになりました。また、当時の帝国陸軍も協力することになり、救済決定がされて早くも2週間後シベリア孤児が陸軍の輸送船に乗せられ日本に到着しました。何回にもわたってシベリア孤児は日本に送られ、全部で765人になりました。当時の日本人は本当に暖かい心があったと思います。と申しますのは、初めは子供達だけでしたが、子供達だけでは不安の面も有り、言葉も不自由であるので、子供10人について大人一人を受入れることにしました。主に女性の方65人を呼んだのです。当時はこれが新聞で大きな話題となり全国から慰問品や寄付金が送られました。また、お医者さん、理髪店、学生さん達がいろいろなボランテイア活動して下さいました。

やがてこれらの子供達も健康を回復し、1920年から、日本船に乗せられアメリカ経由で祖国へかえることが出来ました。帰る際には、この孤児達に洋服や毛糸のチョッキを作ってあげたり、バナナやお菓子も手渡して上げました。船に乗り込んでからも、孤児達は、君が代を歌ったり、ありがとう、さようならを連発して別れを惜しんだということです。

そうしてこのシベリアの孤児達は、ワルシャワを始め祖国へ帰り、それぞれの人生を歩むこととなったわけです。

それから月日がたちポーランドは共産圏に入り、日本側ではシベリア孤児の話はすっかり忘れられておりました。私がポーランドへ赴任して、ポーランドに永住している松本照男さんから初めてこの話をお聞きしました。私はそのときのこの話は、大正時代のことでその後の長い月日が流れてはいるが、まだ生きている方がおられるのではないか。そして何とかしてその孤児の方々とお会いできないかと考えました。それで私は松本さんと相談したところ、松本さんが色々と探して下さって12〜13人の方々が生きておられることが分かりました。そこで、それらの方々を公邸にお招きしたところ、8名のかたが子供さんなどに付き添われてきて下さり感激的な対面をすることができました。

祖国ポーランドに日本から帰国した当時のシベリア孤児。これはシベリア孤児のお婆さんが兵藤先生に贈られた写真。彼女は75年間大切に持ち続けていた。

これらのシベリア孤児達は、既に80歳以上の高齢でした。一人のお婆さんは、車椅子でお孫さんにつれられて公邸にいらっしゃいました。最初に言われた言葉が今も私は忘れられません。そのお婆さんは、『私は今日ここに這ってでも来たいと思いました。私は、生きている間に、もう一度日本へ行ってお世話になった日本の皆さん方に自分の言葉でお礼を言いたかった。しかし、その願いももう叶えられないと思っていました。ところが日本の大使館から御招待が来ました。日本の大使館は日本の小さな領土だと友だちから聞きました。今日私は日本の領土に足を踏み入れることが出来ました。そして日本の代表の方々にお礼を言うことが出来ました。私の長年の感謝の気持ちを伝えることが出来、もう思い残すことはありません。』とその場に泣き出されました。私もそしてそこに居合わせた人々も一緒に泣きました。

私ども大使館でこのシベリア孤児のみなさんにささやかな日本料理を差し上げたところ何十年ぶりの日本料理だと言って喜んで下さいました。そして当時の日本の思い出を実に良く覚えておられました。そうした思い出話しを私どもにして下さいました。

以上でこのシベリア孤児の物語は終わるのかと思っていましたところ、阪神大震災が起き、今度はポーランド側の招きで阪神被災児がポーランドを訪れることになりました。東京のポーランド大使館に4年間勤務していた物理学者のフィリペックさんもシベリア孤児の美談を知った一人でした。博士は大使館勤務中に阪神大震災の惨上を見て、この時こそ日本への恩返しの好機と判断しました。そして彼は早速、企業、芸術家等を訪れ協力を依頼しました。日本でも何人かの音楽家や企業、個人がこれに呼応しました。そして2回にかけて30人ずつの阪神大震災の被災児が、今度はポーランドへ招待されました。第2回目の被災児がポーランドヘ来られたのは1996年の夏でした。3週間招待されていろいろなところを案内されました。そして日本へ帰る2日前にこの話を聞き付けたシベリアの孤児の方々が是非自分も阪神大震災の被災児に会いたいとフィルペック博士に申し出れら、私もその場に招待されて立ち会うことなりました。

シベリア孤児の方々は、4人集まっておられました。そして代表者から30人の被災児に日本での親切にされたことを噛んで含める様に語って下さいました。そして、最後に4人のシベリア孤児のお老人からバラの花が一輪ずつ阪神被災児の一人一人に手渡されました。そして、シベリア孤児の目から涙が溢れ、これで恩返しが出来たと語っておられました。この場に招かれた人々からも万雷の拍手が沸き起こりました。私はこの光景を見て75年前の大正時代に日本の多くの方々がシベリア孤児に親切にして下さった好意がこうして阪神被災児に返ってきたことを思いとても感動しました。

(以下省略)兵藤先生はこの他にもポーランドと日本の善意の架け橋となる美談を、赴任時代の経験からお話頂きました。

        

それらは、文芸春秋発刊『善意の架け橋』にまとめられています。

事務局影山美恵子

e-mail: e-mail: mieko@orange.ne.jp

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